2008年11月15日
私のスタート2~1998年2月14日~
かくして、私は、与儀公園で知り合った初対面の男性から、住み込みの仕事を紹介してもらったのです。
仕事は、ボーリング工事の補助作業でした。沖縄 生活2日目から早速現場入り。最初の現場は、知念村字海野付近だったでしょうか。現在は南城市ですが…。
現場は、私がそれまでに経験したことのない世界でした。ボーリングの機械で深さ5メートル以上の、直径Ⅰメートルくらいの穴を掘る作業なのですが、大量の土砂がたまっていきます。それも、水分をたっぷり含んだ、粘土質の。この土砂をかきわけていくのが、私たちの仕事でした。
私の記憶によると、赤土流出防止の工事だったように思います。
この日の大雨の後、そういえば、海が赤くなっていたことを思い出します。
現場は、私にとって、戦場さながらでした。途中から、土砂降りにもあいましたが、作業は止まりません。
一日にして、沖縄で生きていくことの大変さを痛感したのです。
しかし、なんとか沖縄で活路を見い出したいと思っていた私は、「アパートの契約費用を貯めるまでは、この仕事を続けよう!」と決意します。
実は、その時、私の所持金は約5万円でした。
たったこれだけのお金で、仕事も住むところも何のあてもなく、沖縄移住を決意したのですから、いま考えると無謀だったかもしれません。でも、なんとかなるような、そんな自信があったのです。また、「絶対なんとかしてやる」とも思っていました。
こんな、過信にも近い確信のおかげで、私は、与儀小学校の近くのアパートを借りることに成功しました。2か月半ほど後のことです。
仕事は、ボーリング工事の補助作業でした。沖縄 生活2日目から早速現場入り。最初の現場は、知念村字海野付近だったでしょうか。現在は南城市ですが…。
現場は、私がそれまでに経験したことのない世界でした。ボーリングの機械で深さ5メートル以上の、直径Ⅰメートルくらいの穴を掘る作業なのですが、大量の土砂がたまっていきます。それも、水分をたっぷり含んだ、粘土質の。この土砂をかきわけていくのが、私たちの仕事でした。
私の記憶によると、赤土流出防止の工事だったように思います。
この日の大雨の後、そういえば、海が赤くなっていたことを思い出します。
現場は、私にとって、戦場さながらでした。途中から、土砂降りにもあいましたが、作業は止まりません。
一日にして、沖縄で生きていくことの大変さを痛感したのです。
しかし、なんとか沖縄で活路を見い出したいと思っていた私は、「アパートの契約費用を貯めるまでは、この仕事を続けよう!」と決意します。
実は、その時、私の所持金は約5万円でした。
たったこれだけのお金で、仕事も住むところも何のあてもなく、沖縄移住を決意したのですから、いま考えると無謀だったかもしれません。でも、なんとかなるような、そんな自信があったのです。また、「絶対なんとかしてやる」とも思っていました。
こんな、過信にも近い確信のおかげで、私は、与儀小学校の近くのアパートを借りることに成功しました。2か月半ほど後のことです。
Posted by coda at 18:37│Comments(0)
│沖縄生活