私の生い立ち2~祖父の死の後~
祖父の死後、私は、急速に内にこもるようになった。
対外的には、中学受験を経て、広島県内でもわりと有数の進学校には進んだものの、
中学校・高校でやったこと言えば、受験の為の勉強だけだったと言っても過言ではない。
亡くなられた藤圭子さんの歌の歌詞には、「十五・十六・十七と私の人生暗かった」
というフレーズがあるようだが、まさしく、私の人生も暗かった。
なにせ、中学校・高校と声を発して、自分の思いを発した記憶がほとんど無い。
大げさでも何でもなく、1日何もしゃべらず、学校と家を往復して、深夜ラジオと音楽を心の支えに
生きていたのである。
勉強だけは、やらざるを得なかった。
それだけが、唯一私の生きる道であったから。
しかし、高校1年か2年くらいからだろうか。
だんだん、受験勉強を極めていくことに限界を感じるようになった。
この先、勉強を続けて受験競争に勝ち、弱肉強食の社会で出世することに
何の意味があるのだろう・・・と感じるようになった。
そして、何故、私は、両親のように障がいを持って生まれてこなかったのだろう・・・?
耳が聴こえなかったならば、聞きたくないことも聞かなくて済んだかもしれない・・・。
こう言ってしまうと、両親は悲しむかもしれないし、障がいを持った当事者の方々にもおこられそうだが、
紛れもなく、そう思うようなことが多かった。偽らざる私の気持ちであった。
障がい者でもなければ、「健常者」でもない・・・。
私はいったい何なのだろう・・。
どちらかというと、私は、障がい者の方に近いのかもしれない。
五体満足だけれども、社会にはどうしてもなじむことができない。
私は、苦しいけれども両親のようになりたい。
しかし、同じようには生きられない。
そんな、悶々とした日々と内にこもる生活のせいか、高校卒業当時
私の体重は、120キロにも達してしまった。
関連記事